ひ つ じ の ゆ め

わ た し の 遺 書

書くということ

「上手な文章を書きますねえ、うん。」

高校時代お世話になったとある先生が、私の作文をそう褒めてくださったことがある。そして詳細は忘れたが、とある新聞のとあるコンクールに出品する作文に選んでいただき、紙面に掲載された。そして新聞社から、図書カードか何かを貰ったはずだ。

 

私は、自分の文章が上手いとか下手だとか、そんなものは分からない。今だって、ただ書きたいから書いているだけだ。日本語自体正しく使えているかどうか分からない。語彙も乏しい。表現力も無い。あのとき何故先生が褒めてくれたのかもよく分からないままだ。

 

それでも、先生の言葉は私の支えとなっている。先生は昔から本の虫で、沢山の作家の沢山の作品を読んできた方だ。そういう方に自分の文章を褒めてもらえて嬉しかった、というのは、先生の言葉がずっと心に残り続けている理由の1つだ。だが、それに加えてもう1つの理由がある。

 

当時私が通っていたのは、県内でも指折りの進学校だった。私は何とか滑り込んだという程度の学力で、日々勉強が苦しくて苦しくて仕方がなかった。中学時代は3年間学年1位を譲らなかったが、秀才の集まる高校では田舎の学校での学年1位なんてただの底辺だった。当然それは進学を決めたときから分かっていたことではあったが、それでも辛いものは辛かった。

 

そんなときに、先生から褒められたのである。そのおかげで私は、「自分もここにいていいのかな。」と思うことができた。大げさだと思うかもしれない。でも私はそれくらい気持ちが沈んでいた。

 

大学生になった今、長さは様々だが、レポートや論文をしばしば書かされる。その度に私は、先生が褒めてくれたことを思い出す。そうすると、自分の文章に自信は無くても、ちょっとだけ頑張ってみようかなと思えるのだ。