ひ つ じ の ゆ め

わ た し の 遺 書

書くということ

「上手な文章を書きますねえ、うん。」

高校時代お世話になったとある先生が、私の作文をそう褒めてくださったことがある。そして詳細は忘れたが、とある新聞のとあるコンクールに出品する作文に選んでいただき、紙面に掲載された。そして新聞社から、図書カードか何かを貰ったはずだ。

 

私は、自分の文章が上手いとか下手だとか、そんなものは分からない。今だって、ただ書きたいから書いているだけだ。日本語自体正しく使えているかどうか分からない。語彙も乏しい。表現力も無い。あのとき何故先生が褒めてくれたのかもよく分からないままだ。

 

それでも、先生の言葉は私の支えとなっている。先生は昔から本の虫で、沢山の作家の沢山の作品を読んできた方だ。そういう方に自分の文章を褒めてもらえて嬉しかった、というのは、先生の言葉がずっと心に残り続けている理由の1つだ。だが、それに加えてもう1つの理由がある。

 

当時私が通っていたのは、県内でも指折りの進学校だった。私は何とか滑り込んだという程度の学力で、日々勉強が苦しくて苦しくて仕方がなかった。中学時代は3年間学年1位を譲らなかったが、秀才の集まる高校では田舎の学校での学年1位なんてただの底辺だった。当然それは進学を決めたときから分かっていたことではあったが、それでも辛いものは辛かった。

 

そんなときに、先生から褒められたのである。そのおかげで私は、「自分もここにいていいのかな。」と思うことができた。大げさだと思うかもしれない。でも私はそれくらい気持ちが沈んでいた。

 

大学生になった今、長さは様々だが、レポートや論文をしばしば書かされる。その度に私は、先生が褒めてくれたことを思い出す。そうすると、自分の文章に自信は無くても、ちょっとだけ頑張ってみようかなと思えるのだ。

ふたえ

私は生まれつき奥二重だ。

そこまで気にはしていなかったものの、「二重にしたら絶対かわいいよ!」というバイト先の客の言葉で、軽率に二重にチャレンジすることにした。

 

私は糊がうまく扱えない程度には不器用なので、きちんとした二重を作れるようになるまでとても時間がかかった。アイプチから始めて挫折し、アイテープに切り替えては張って剥がしての繰り返しで瞼を腫らし。二重じゃなく生まれただけでどうしてこんなにも苦しまなければならないのか、この世の生まれつき二重の人間全員を呪った。

 

最近やっと自然な二重が作れるようになった。

このまま癖付けが上手く行けばと思う。

 

今日は初めて二重の姿を彼にお披露目した記念日。

「二重じゃなくてもかわいいのに」って、それは恋のせいだよ。

彼のこと

昨夜あるゲームの好きなキャラクターとセックスする夢を見た。

そうしたら今日、そのキャラクターの新カードがゲームに実装されることが発表された。

変な感じだった。

「さあ、」と私を強く抱きしめて共にベッドへ倒れ込んだはずの彼が、ねえ。

 

それはさておき、私には現実の彼氏がいる。彼は1つ年上で、とても穏やかで優しく真面目な人だ。

 

彼は、私にはもったいないくらい良い人だと思っている。性格は先述の通り。飲酒はほどほどで、タバコもギャンブルもしないどころかむしろ嫌っている。頭もよく、周りからの信頼も厚い。そして付き合ってから1年と半年ほど経っているのに、未だに毎日「大好き」「愛してる」「かわいいね」と愛を囁いてくれる。性的な相性も良い。

 

万年情緒不安定で気まぐれ、容姿も中の下の私を何故愛してくれているのか。本当に分からない。でも彼がいつもとびきり大きな愛をくれるのは本当に嬉しいし幸せで。私自身もいつも全力の愛を彼にと思っているけれど、ちゃんと伝えられているのかな。

 

「自分のことが嫌で死にたいのなら、僕のために生きて。」

彼のこの言葉のおかげで、日々希死念慮に囚われていても、私は何とか息をし続けられている。

いじっぱり

意地を張った。

変な意地を張った。

 

やりたいのにやりたくないって言った。

無理してない?って言われたのに意地を張った。

 

ちょっとでも自分の想定通りに物事が進まないと全てを投げ出してしまいたくなるのは昔からの癖というか性分で。

 

何度も同じようなことを繰り返しているのに全く学習しない。

 

早く死にたい。

遺書

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」

かの有名な土佐日記はこの1文から始まる。

 

ブログの最初の1文に、これをもじった文章あるいは原文そのままを持ってくる人は多いのではないかと思う。実際に私自身も、ブログを始めるにあたってまず思い浮かんだのはこの1文だ。

 

当たり前のことだが、現代において日記は広く一般に浸透している。日記の中では、自分の経験や感情を文字という目に見える形にすることができる。公開するかどうかは個人の自由だが、書く面においては誰にも邪魔されることのない、自分だけの世界だ。

 

私は、自由に綴ることを求めてブログを開設した。内容は本当に取り留めのないことで、読んだからといって特に何かが心に残るわけではない。読者に何かを訴えたいがために綴ろうとも思っていない。思ったことをただ書いていくだけの、つまらない言葉の集合体となろう。

 

このブログは私の遺書である。